生物学者 上野益三解説
「信陽菌譜」(しんようきんぷ)、上下二編は、信陽(南信濃)伊奈郡(長野県下伊那郡)を中心とする地方のキノコの彩色図説である。著者は市岡智寛、本は寛政巳未、すなわち十一(1799)年にでき上った。江戸時代にできたキノコの図説はいくつもあるが、版刻されたものは、「信陽菌譜」のさきに松岡玄達の「怡顔斉菌品」(宝暦十一年1761)、あとに坂本浩然の「菌譜」(天保六年、1835)などがあるに過ぎず、他はすべて写本である。
 キノコ類はその特異な形態と、美しい色彩のものがあるので、よくできた菌類図説は、学術上重要であるばかりでなく、見る者の眼を楽しませ、十分観賞に堪える。ここに覆製する「信陽菌譜」の原本は、長野県の博物学者矢沢米三郎氏が京都の古書肆で入手したものを、松本在住の博物家犬塚時次郎翁が、それを丹念に写本着彩したものである。本解説者は昭和二十一年四月十九日、犬塚翁を松本市の住居に訪うた。そして翁が取り出して見せる写本を閲するうち、「信陽菌譜」のできばえに感嘆し、請い得て上野文庫に架蔵した。いま本の覆製に当り、その美しい色彩を再現できないのは遺憾である。
「信陽菌譜」は上下二編を通じ、六十九種のキノコを載せ、うち六十七は彩色図を伴う。
それぞれに短い漢文の説明をつけるが、キノコの名称は強いて漢名を用いることなく、方言または俗称であるのは、著者智寛の一見識であろう。下編の末尾に、右の図は信陽伊奈郡中の菌類で愚考を加えて土岐先生の需めに応ずる、と書いているが、この土岐先生が智寛とどのような関係の人物かわからない。また、序を草した松渓は信陽の医木沢松渓だという。智寛は「信陽菌譜」ができた同じ寛政十一年に「三野伊奈郡菌品」一冊をつくり、キノコ類七十一種を彩色図説する。両書の内容は大同小異であるが、「三野伊奈郡菌品」が「信陽菌譜」の副産物としてできたのか、あるいは前者は「菌譜」の予備作品としてできたのか、比較研究をようする。
市岡智寛(いちおかともひろ1739〜1808)、通称佐蔵、比静と号した。飯田の人。京都に出て村瀬栲亭に経義を学び、白隠に参禅して印可を受けた。本草や画技の師は明らかでない。智寛の父市岡源九郎忠智は製糸が家業であったが、千村飯田役所の手代をも務めた。
智寛ものちに父の跡を襲って手代になった。千村氏は美濃国可児郡久々里、四千四百石の旗本であったが、伊那郡の天領をも支配し、それらの事務処理に飯田に役所を開いていたのである。千村氏はその上伊那郡内の幕府直轄の山林を支配する槫木山奉行(くれきやまぶぎょう)をも兼ねた。父忠智の跡を継いで手代になった智寛は、小史であったが、職務上山林を巡視する機会が多く、キノコ類を眼にすることも多かったろう。採ってその真を写すようになったのだと思われる。
 知寛はキノコ以外の動植物にも興味があって二、三未刊の著書が残されている。「信陽菌譜」は印刷にこそならなかったが、全部彩色の菌類図説として、十八世紀末のわが博物学史に残るべきものである。智寛は文化五(1808)年十二月十八日、南信飯田で没した。
年七十。墓は飯田市竜翔寺にある。

上野益三(1900〜1989)明治33年2月26日〜平成元年6月17日
「博物学短篇集〈下〉江戸科学古典叢書45 恒和出版 1982年」